韓国より2004年秋の訪日レポートが届きました

どなたかの署名はありませんがすばらしい文章です。タリトル会
の清水先生に翻訳など手伝っていただきました。先生、カムサハ
ムニダ。


日本東京旅行記   2004年10月16日〜18日(2泊3日)

久しぶりの海外旅行への期待に
胸をふくらませながら、その日が
来るのを待っていました。そして、
2004年10月16日土曜日午後6時
20分。3人のお世話係が一生懸
命に準備してくださったお陰で、オ
リンピック公園東門から日本旅行
が始まりました。
 イ・チャンフンさん、女性会員2
人、それに妻と私の5人で時間を
合わせて、インチョン空港行きの
バスに乗り込みました。バスの中
では、空けてきた我が家を妻と二
人で心配しながら家の中の風景を
思い、今始まったばかりの日本旅
行を想像しながら目を閉じていま
した。
1時間10分でバスはインチョン空
港に到着。先に来ておられた会員
たちの嬉しそうな顔が目に飛び込
んできました。しばらくして、空港
に勤務している故郷の友達が近
づいてきて、飲料水を1本ずつ私
たち一行に配りながら「無事に行
っていらっしゃい」と言ってくれまし
た。

 この時が午前8時20分。第一番
目の事件が起きました。一行の中
で一番物静かなムン教授が古い
パスポートを高く掲げて、誰かと連
絡をとっておられました。新しいパ
スポートを家に置いてきて、なんと
穴ぼこだらけの手垢のついたパス
ポートをもっていらっしゃるではな
いか。一行はしばらく緊張しまし
た。私の永遠の卓球の師匠である
イ・チャンフン会員は、団体で飛行
機に搭乗しなければ時間を稼げ
る、と言ってムン教授をなぐさめて
いました。しかし、時間は私たちの
ためにゆっくり進んではくれなかっ
たし、ムン教授以外の一行は搭乗
口のそばで休息をとっていました。
私は義理の母が準備して下さった
お餅を広げて皆の空腹を満たして
いました。そのとき、背の高い影が
堂々と近づいてきました。奥様の
必死の努力で無事に届いたパス
ポートを手にしたムン教授でした。
ハハハハ. . . . . . .。
 
 無事にユナイテッド航空東京行
きの飛行機に乗り、一行16名がお
やつを食べたり、ビールやワイン
を飲んでいる間に機内放送は日
本成田空港に到着したことを告げ
ました。すでに12時を過ぎていまし
た。
 空港の狭い出口で、日本STC卓
球会員が嬉しそうに出迎えてくだ
さいました。出迎えてくださった人
達と慣れない抱擁をもし、必死に
微笑んで顎が痛いほどでした。そ
して日本に住んでいるソ・スンミ会
員の娘さんが大阪から7時間かけ
て空港に駆けつけ、劇的な相愛式
がありました。娘さんは30分遅れ
て空港に到着したので、その間、
愛煙家の2人の会員は手をつな
いで仲良く建物の外に出て行く姿
が何度か見うけられました。
 
 そして、私たちのすべての日程
は、日本の会員が立てて下さった
計画通りに動き始めました。空港
からスカイラインで首都東京に向
かいました。車窓から眺めた日本
の風景は我が国とそれほど違って
はいませんでしたが、小さな空間
をうまく活用する文化を形成して
いるように見えました。小学校らし
いところでは秋の運動会をしてい
るのか、子どもたちが走っている
姿も見えました。私の心をなごま
せてくれたのは、ところどこに見え
た柿の木でした。1時間30分ほど
で新宿駅に着きました。
 午後3時。新宿は曇り空でした
が、駅を出ると、ソウル駅の時計
堂のような建物の時計が、私に向
かって挨拶をしているように見え
ました。さあ、日本の生活が始まり
ました。
 新宿中央公園までの3,4キロを
荷物を持って、全員が歩いて移動
することになりました。近い距離も
車で移動する私たちの文化と大き
な違いです。実質的で彼らの底力
を改めて感じました。歩いていく
と、右側にかなり高い建物があり
ました。それは東京都庁でした。
実に驚いたことに、都庁のすぐ隣
の隅っこにホームレスの人たちの
生活の場がありました。そしてホ
ームレスの人たちは慌てず、恥ず
かしがらず、余裕を持っているよう
に見えたのも驚きでした。
 20分ほど歩いてシティーホテル
に着きました。荷物を降ろし、軽い
服装になって再び歩いて、着いた
所は都庁の近くのデパートでした
が、ロッテワールドに似た地下道
でした。そこにある「立ち食いそば
屋」さんで日本の料理を始めて体
験しました。500円程度のうどんに
は天ぷらが一つと玉子焼きが少し
入っていて、醤油味の汁でした。
「空き腹にまずいものなし」という
ことで、もっと食べたいと思いまし
た。
 腹ごしらえができた私たちは、日
本会員の案内で二駅離れた高田
馬場駅で降りて、卓球用品を購入
しました。ところが、高田馬場の一
つ前の駅を通り過ぎながら、ずっ
と気にかかることがありました。そ
れは義人イ・スヒョンのことでした。
新大久保駅には記念碑が建てら
れていると聞いていました。その
事件の内容はこういうものです。
「去る1月26日午後7時10分。東
京の新大久保駅で一人の酔客が
足を踏み外して線路に転落。彼を
助けようとして韓国人留学生・李
秀賢(26歳 高麗大学貿易科4年
 休学中)さんともう一人の客が線
路に飛び降りた。しかし、悲しくも
酔客を助ける前に列車がホーム
に入って来て3人とも亡くなった。」
 事件の後、彼を弔問する人が列
を作り、ある日本人のおじいさん
が100万円を届けるなど数多くの
弔慰金が寄せられました。それに
日本の森総理や福田官房長官が
弔問されました。また、李さんが韓
国にいるときに立ち上げたホーム
ページには、感謝と追慕の文章が
数日間で3000件も寄せられたとい
うことです。キダキオトさんは「日
本人として、あなたの愛に感謝い
たします」 オシロさんは「あなた
は私たちにあまりにも多くのことを
教えてくださいました」と悲しんで
いました。あっという間に李さんは
日本列島を揺るがし、朝日新聞な
どは彼の限りない高い犠牲を称え
ました。
私は人を救うために亡くなった一
人の青年を偲びながら、宴会場に
移動しました。居酒屋のような宴
会場でした。私たちは驚きました。
ゴムひものネクタイをした男女二
人の司会者が、前もって計画した
シナリオ通りに努力し、地道に宴
会を盛り上げている姿には本当に
感動しました。出された料理は、豆
腐、鶏肉、しゃぶしゃぶ、魚と豆と
キャベツ、玉子焼き、竹の子のよう
なものにご飯を入れて蒸したも
の、梅酒、ビール、日本焼酎、清
酒、ワインなどでした。一人3,500
ウォン。十分にもてなしを受けた私
たちは再びホテルに戻り、日本で
初めての眠りについたのでした。
 しかし、この夜をこのまま過ごす
のはもったいないと、師匠の提案
で新宿の夜を視察することにな
り、妻と3人でホテルを脱出して、
疲れた体を引きずりながら新宿を
闊歩しました。あちこちにホームレ
スの人が鼾をかいて寝ており、ビ
アホールやソバ屋だけが客を待っ
ていました。道端の二重駐輪設備
には自転車が駐輪していて、自動
車は夜間であるのにもかかわら
ず、信号を守っていました。自転
車に乗ったお巡りさんが巡察して
いる姿もあり、新宿駅は夜遅くま
でタクシーを利用する人々が列を
つくっていました。夜の巡察を終え
た私たちは、疲れた一日に幕を降
ろしたのでした。

 10月17日の朝。早めにホテルを
出た私たち一行は、新宿中央公
園を通って歩いて駅に向かいまし
た。公園の隅っこではバザーが開
かれていました。毎週開かれるの
だそうです。実に節約上手で一生
懸命に暮らしている姿でした。大
江戸線で30分余り電車に乗り、蔵
前駅で降りました。駅から少し離
れたとことに会場がありました。郵
便局体育館ということですが、30
人余りの日本の会員が私たちを
暖かく迎えてくれました。
 午前10時。日本の会員たちはぞ
れぞれの係りを一糸乱れずに役
割を遂行し、私たちは何一つ不便
を感じることはありませんでした。
日本からはSTCのマーク入りのT
シャツを、私たちからはユ・ジュン
ホ会員が一つ一つ漢詩を書いた
センスをプレゼントとして交換し合
って歓迎の気持ちを表わしまし
た。そして、この日もたくさんのこと
を学びました。
 ます、公共施設を利用するに当
たって、清潔に使用し、無駄をなく
すという点でした。例えばプラスチ
ックのカップにはそれぞれが自分
の名前を書き入れて一日中その
カップを使うようにしたり、お昼の
お弁当の時間にも何一つとして無
駄や贅沢さがありませんでした。
更に驚かされたのは、7時間近く
もゲームをしたのに誰も退屈しな
いように配慮がなされ、実力に差
があっても満遍なく経験できるよう
に計画的に運営されたことでし
た。これは生活体育において私た
ちが最も学ばなければならことだ
と思います。誰もが満足して楽しく
ゲームができたのは、STCには会
を計画的に運営できる実力があっ
たからだと思います。そのことがと
ても羨ましく思いました。
 夜の宴会のシメのとき、2002年
のワールドカップの時と同じ応援
をして、お互いに、お互いの国を
応援し合いました。名残惜しい気
持ちで胸がいっぱいになりなが
ら、来年の再会を約束して、師匠
と私は一人一人に焼酎を一つ一
つ配って回りました。
 宴会が終わってホテルへの帰り
道。入り組んだ狭い交差点の真ん
中に光るものがあって、車が気を
つけてそこを通るように配慮され
ていました。日本人の知恵が道路
にも効果的に生かされていまし
た。また、よくみると道路工事の作
業員の中で老人も働いておられた
のが印象的でした。
 このように二日目の夜は更けて
いきました。

 11月18日。無事に二日間を過ご
した私たちは、朝からガイドなしで
一日を移動しなければなりません
でした。ビョン会長が沢山の苦労
をされたので、今日は師匠の助け
をかりてあちこち歩き回って旅行
社を探し、成田空港への切符を手
に入れました。外国に何度も行か
れた経験と、得意な英語を使って
あれこれ調べる師匠の役割は絶
大なものでした。無事に大江戸線
に乗って浅草に到着。駅から5分
ほど歩いて浅草寺を訪ねいろいろ
と見物をしました。昔、ある漁夫兄
弟が隅田川で漁をしていたとき、
その網にかかった黄金の観音菩
薩をまつったのが浅草寺の始まり
で、東京では最も古い寺だそうで
す。お寺の山門にあたるのが寶蔵
門で、「小船町」と書いてある灯篭
には灯がありました。寶蔵門を過
ぎると、浅草寺の本堂である傳法
院があり、江戸初期に作られた日
本庭園が有名です。傳法院の観
覧は視察事務所の許可が必要な
のだそうです。浅草寺正門にある
のが雷門。真ん中ぶら下がってい
る大きな提灯は高さが3.3m、重さ
100kgもあります。火災で何度か
焼失しましたが、現在のものは
1960年に再建されたものだそうで
す。
 面白いことがありました。膝の上
まで短くしたスカートの女子学生た
ちが、並んで置いてある筒の一つ
を手に持って振り、中から何かを
取り出しました。そこに何かが書
いてあり、それを読んだ女子学生
がけらけら笑っていました。よく見
ると、それはいわゆる占いでした。
自分の未来の運勢についてお互
いが素直に明るく笑う姿は、私た
ちと変わりありませんでした。
  しばらくして12時ごろなると、私
たちは成田空港に向かう電車に
乗りました。やっと買うことができ
たお弁当を電車が行き来する場
所の隅っこのベンチで美味しく食
べました。これもいい思い出になり
ました。成田空港には予定より早
く着いたので、私たちはゆっくり休
息をしてから、U.S.インチョン行き
の飛行機に身を託しました。それ
ぞれの家族の好きなお土産をいっ
ぱい抱えて搭乗口に向かう皆の
姿を見ながら、ああ、旅行というも
のは自分の家族に改めて思いを
はせる隠れた利点があるのだ、と
思いました。
 午後9時30分!インチョン空港。
2泊3日の名残惜しい旅行が終わ
りました。参加できなかった会員
への申し訳ない気持ちと、大変な
苦労をなされた会長と、会員の皆
さんへの感謝の気持ちでいっぱい
になりました。今回の韓日交流会
の旅行を通じて感じたことを、私が
代表してこの旅行記を書きまし
た。

  


原稿を書いてくれた○○氏と奥さん

問題のパスポートを忘れたムン教授 汗、汗…
…。

STCの仲間が迎えに来てくれていた

ようこそOTCさんいらっしゃ〜い

続々と懐かしい仲間がやってきました

まだ緊張が解けないのかなあ……

新宿に到着 後ろは都庁です

ホテルに到着 ちょっと一息

てんぷらうどんがし美味しかった

このお店のひとつ前の駅に”義人イ氏”の善行
の碑がある
日韓の友好、STCとOTCの友情もこれが原点
になりそうだ

あんまり安くないのかなあ……

STCのメンバーに、芸人がいる





日韓飲兵衛軍団の揃い踏み

STCのシステムを気に入ってもらったようだ


STC前会長の黙祷後記念撮影

両国で人気を呼んだプレゼント交換

文字通り架け橋を演じてくれた『ヨンチャン先
生』

この名人の手書きの漢詩の扇子が大好評




レオ・トルストイは「三つの質問」の
中で「世の中で最も重要な時は、ま
さにこの瞬間」であり、「最も重要な
人は、今一緒にいる人」であり、「最
も重要な仕事は、今私の近くにいる
人のためにするいい仕事」であると
言いました。そして「それが世の中
で最も重要なことであり、私たちが
生きる理由」だと言いました。
 
会員の皆様! 大変お疲れ様でし
た。お陰さまで良い経験が出来まし
た。ありがとうございました。

2004年10月27日
 

韓国OTCの皆さんようこそ日本へ 本当にカムサハムニダ
そして天国の角鹿さん、すばらしい日韓交流ができましたよ